ショートショートバトル 5KBのゴングショー第4戦勝者

「Water」

雨守 零子

 霧のような、細かい雨が降っている。
 白く、視界をさえぎっていて、いつもの帰り道なのにそうとは思えないような、まるで一人未知の世界に迷い込んだような現実感の無さ。
 そんな、夜だった。
 
 雨が降ると、なぜだろう、かなしくなる。泣きたいって思う。何かあったならともかく、なんでもないときも。
 一人でいるのが、淋しくて、心細くて。まるで、「誰かに会いたい」、そんな気分。
 でも。
 私は、誰に会いたいんだろう・・・。
 

 家は、もうすぐだ。
 しっとりと濡れた肩を縮めるようにすると、傘を持ち直して、霞んで見えない曲がり角を右に。
「あっ・・・」   
 驚きが、声となって、口をついてでる。 
 少年がひとり、傘もささずに立っている。
 雨に溶け込む景色の中に、その姿だけが浮かび上がって。
 年の頃は、14、5だろうか。
 私は、彼を知らない。
 それなのに。
 懐かしい。
 そう、思った・・・。
 その思いが、全身を支配するような、ああ、「懐かしい」とはこんなに激しく訴える感情だったのか、と。
 気づくと、私は泣いていた。
「やっぱり、あなただった」
 少年は、静かに微笑んで、言った。 
「どうして・・・」
 声が、震える。
「ここにいれば、会える・・・そんな気がして」
 話し方も、表情も、落ち着いて、とても大人びている。
「あなたは・・・いったい」
 彼は、それには答えず、ゆっくりと近づいてきた。
「会いたがっている人達が、いるから」   
 そして、私の手をとった。

 流れ出ていくものがある。
 私の中から、何かが消えていく。
「やっと、会えた・・・」
 そう言ったのが自分だ、ということを、気づくのに時間がかかった。それが、私の意志ではなかったから。
 ただ、嬉しくて。幸せで。あたたかいものが、満ちていくように。
 その中から、何か、わきあがる。
 誰かの、記憶・・・いや、もっと淡い、例えるなら印象のようなもの。
 暖かくて、光が満ちて、草花の香りがして、水の流れる音が遠くに聞こえる。
 肩にもたれて見上げると、微笑みを返した。
 そこに、いるのは・・・。


「見えましたか」
 少年の声で、我にかえった。
「・・・ええ、見たわ」
 知らず、ため息がもれる。
「ねえ、今のは・・・?」
「僕に触れた『思い』と、あなたに触れた『思い』が、長い時を経て、再び出会ったんです。そう・・・今見えたのは、彼らの、思い出」
「・・・思いって・・・?」
 聞き返すと、彼は、降りしきる雨に濡れた、額に落ちかかる髪をかきあげて。
「こんな、雨の日に、何か思うことがあるでしょう。あなたなら」
 穏やかな、その言葉に、はっとする。
 この人は、私と同じなんだ・・・。
 そう、直感した。
「あなたも、そうなのね。そうでしょう。私、今までずっと・・・」
 彼は、ただ静かに頷くのみ。年齢に似合わぬその穏やかさに、圧倒されて、何も言えなくなった。
「水、なんです」
 と、彼は言った。
「・・・みず? 水って・・・」  
 私は、おうむ返しに聞き返すことしかできない。  
「人のからだは、半分以上が水分なんだそうですが・・・」
「聞いたこと、あるわ・・・」
「人の記憶もまた、水に刻みつけられるんです。その人が、死んでしまった後にも、水の記憶は残る・・・記憶が薄れても、強い思いは、消えないんです」
 後から思えば、ずいぶん不思議な話で、およそ現実的でないのに、どうしてあんなにたやすく信じられたのだろう。
 たぶん、彼の持つ独特な、何か心が安らぐ雰囲気が、そうさせるのだろう。それに、こんな雨の夜。何があっても、おかしくないような気がした。
「何故でしょうね、水に触れると、感じ取ることがある。一瞬でも、『共有』すれば、ずっと、僕の中に思いが残る。そして、あなたも、僕と同じように」
 街灯の投げかける光が、彼の顔にくっきりと陰影を作り出している。
「あなたが『共有』した思いと、僕が『共有』した思いは、
互いを求めて、やっと出会った。偶然に偶然が重なって。運命なんて信じないけれど、不思議ですね」
 いつのまにか落としていた私の傘を、彼は拾って手渡してくれた。   
 降りやまない空を見上げると。
「こんな雨の日は、まるで誰かが語りかけているような、すがりつかれているような・・・無力な自分を感じるようで、やむことのない空を見つめるのです」
 彼は、私の横を通り過ぎようとする。
 いけない・・・。彼をこのまま行かせては、いけない。
 もう、彼に会うことは、二度とない。そんな気がして。
「待って・・・あなた、は・・・」
 言葉にできない、けれど。
 彼を、まっすぐ見る。
「一つでも、誰かの思いをかなえてあげたい、と思って。僕と同じ人間に、水の思いを知っている人間に会いたくて。ずっと、探していた」
 呟くと、彼は、振り向き、初めて年相応の笑顔を見せた。「あなたに、会えてよかった」
「・・・・えっ、ちょっと、待って、待ってよ」
 角を曲がって彼の姿が見えなくなる。
 私は、すぐに追ったのだけれど。
 もう、そこにはいない・・・。
「・・・待って。もっと、あなたと・・・」
 軽いめまいを感じる。
 夢かまことか。それすら、今の私には、わからない。
 けれど・・・。
 彼は、いたのだから。


 流れゆく、形をもたないもの。
 決して、その本質は、変わらずに。
 水とは、ひとの気持ちとは、そういったもの。
 

 数年たって。
 私は少し大人になり。
 見知らぬ少女と、すれちがった。
 何かを感じて、振り向いた。
 少女も、信じられない、といった顔で、私を見ている。
 同じ、だ・・・。
 彼女は、あの日の私のすがた。
「あなた、誰・・・」
 彼女が、問いかけた。
 微笑んで、私は言う。
「・・・やっと、会えた・・・」 

[前の殿堂作品][殿堂作品ランダムリンク][次の殿堂作品]


[HOME][小説の部屋][感想掲示板][リンクの小部屋][掲示板]