「なぜ…なぜなの?どうして…」
早朝のドライブ、彼女は、誰もいない海岸で、男に追いつめられていた。
海岸は高さ数十メートルの切り立った崖となり、男は手にしたナイフを彼女に向け、近づいていく。
「どうしてなの…お願い、助けて…わけを教えて…」と彼女は、震える声で呟いた。
ついさっきまでは、将来を誓い合った恋人同士だったのに…
暴力を振るわれる事もあったけど、それ以上に優しく私を愛してくれていたのに…
婚姻届に判を押し、生命保険を掛け合い…
これは、何かの間違いよ。悪い冗談だわ。
「邪魔なんだよ。迷惑なんだよ。孤児の俺を哀れむような目で見やがって!」
「そんな…そんな、私…」
が、彼は彼女の言葉に、耳を貸そうともしない。
言葉にならない言葉で訴え、涙で潤んだ瞳で訴え…首を横に振り…
「うるさいんだよ!おまえは海に落ち、事故死するんだよ。保険金は俺が貰い、お前の妹と結婚する。お前を失った男と女が、恋に落ちるのは簡単だからな。俺の幸せのために…」
男は言葉を続けていたが、彼女の耳には届かない。彼の表情は、狂気に満ちているようにも、悲しげな表情を浮かべているようにも感じられるのだが、彼女にはそれを読みとるだけの余裕もない。
ひどい…許せない。私を裏切っただけでなく…何も知らない妹を、不幸にはさせない…私の大事な者を守るために、私は死なない…死ねない!
愛が殺意へと変わり…そして彼女は反撃を開始した。
小さな勇気を振り絞り、素手で…
「えいっ!」
「うっ、なっ、何をっ!」
二人はナイフを奪い合い、男は女を突き飛ばす。
「離せっ!」
「きゃあぁぁぁぁっ」
「うわっ」
二人は同時に悲鳴を上げていた。突き飛ばした反動で、男は海へと落ちていく。
どうして…どうして、こんな事に…
彼女はその場に座り込み、虚空を見つめて涙を流した。
「どうして…どうして、こんな事に…どうしてなのぉぉぉぉぉーっ! どうしてよぉぉぉぉぉーっ!!」
誰かが気づいて通報したのだろうか。遠くでパトカーのサイレンが響いてくる。
しかし彼女には、何も聞こえない…何も見えない。
その後の彼女も、悲惨だった。
保険金詐欺の疑いをかけられ、魔女と後ろ指をさされ、叩かれ、噂され…
やがて噂は、別の、もっとショッキングな事件によって消され、彼女はマスコミの前から姿を消した。
やがて彼女は、普通の生活へ戻っていった。
心の傷を癒やし、結婚し、子供が産まれ、10年の歳月が流れたある日の事。
「ママ、手紙を預かったよ。はい、これ」
彼女に似た、まだ小学生の娘はそう言うと、茶色く変色した封筒を手渡した。
「何かしら?」
彼女は、その名前も書かれていない封筒を開き…
手紙は、「10年前の真実について語る時が来た」で始まっていた。
「ひっ!」
蘇る恐怖。
「こ…これ…誰がこれを持ってきたの?」
「知らない人。10年間、預かってたって。お母さんに渡してくれって言ってた」
無邪気な娘は、そのまま遊びに出て行き、一人となった彼女は…
そうよね…だって、あの人は…ううん…
彼女は首を横に振ると、読み出した。
事件当時なら読めない文章も、今なら読めた。あの時は、心の底から彼を憎んでいた。顔も見たくなかった。なのに…真実という言葉に惹かれてた。
今、君がこれを読んでいるという事は、私は計画に従い、10年前に死んだという事だね。
僕は、二重人格者になっていた。僕の知らないもう一人の僕が、君に保険を掛け、殺そうとしていた事に気がついたんだ。
あいつの起きている時間が、だんだん長くなっている。君の命が危ないんだ。治療する時間もない。だから僕は、僕でいる間に、この芝居を考え、実行する事にした。君を殺すふりをして、自殺することに決めた。
僕に身寄りはいないし、悲しんでくれる人もいない。誰にも迷惑はかからない。一時的に君を傷つけることになるが、それは時が解決してくれるだろう。
ただ…一生このまま、誤解され続けるのは、耐えられない。だから…10年後の君に、この手紙を送る事にした。
永遠に、君を愛している。僕を忘れ、誰か別の人と結婚し、子供を産み、幸せな人生を送ってほしい。君に幸せになってもらいたい…
怖い…それでも僕は、君を愛している。愛しているんだ!時間がほしい。もう一人の僕を、倒すための時間を。もし、生まれ変わることができたなら…二度と、君を離さない。
馬鹿な僕を笑ってくれ。
君の愛に、命をかけた男がいた事を、忘れないでくれ。
そして手紙は終わっていた。
「あなた…」彼女は、嗚咽を漏らしながら泣いていた。
深い愛情を感じ、涙を溢れさせ…
誰かが居間に飛び込んできたのにも、気づかずにいた。
「お母さん、どうしたの?ねぇ、どうしたの?」
だが、彼女は答えない。
答えられなかった…
やがて…
「ただいまぁ。おや、どうしたんだ?なぜ、泣いているんだい?何があった?」
彼女の夫は、妻の異常に気がつくと、心配そうに声を掛けた。
「お母さんねー、手紙を読んでから、泣いてるの」
彼女は手紙を閉じると答えた。
「何でも…ないわ…昔の彼から、手紙が届いたの」
「それで、どうしたんだい?そいつは、僕の知ってるやつか?君を悲しませるような男は僕が…」
彼女は首を横に揺りながら、夫の言葉を遮った。
「これは…海に落ち、記憶を失う前の貴方から、いただいた手紙なの。愛してるわ、あなた。」
「あ…あぁ、僕も…さ」
こうして、一つの謎は明らかとなり、愛は、より深いものへと成長した。
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