ショートショートバトル 5KBのゴングショー第94戦勝者

「史上最低の誘拐」

たそがれイリー

  その電話は、梅雨時の蒸し暑い昼下がりに掛かってきた。
 先生に代われ、という威圧的なその声は、看護婦を医務室に駆り立てた。
 看護婦の様子にただならぬ事情を感じた医師は、恐る恐る受話器を取った。

「おまえの女房を預かったぞ。返して欲しければ1億円持ってこい」
「なんだって」
「何度でも言ってやるよ、おまえの女房を預かったって言ってるんだ」
「…」
「どうした、そんなに悲しいか」
「今は言葉がでないな」
「そうだろう、まあ、おまえが医者で、財産をしこたま持っていることを悔やむんだな」
「いや、そういう意味じゃないんだ」
「なんだよ」
「ついでに、始末してくれないか」
「なにぃ?」
「いやね、こっちにも事情ってのがあってね、事情」
「何を言っているんだ。おまえの女房の命はないって言ってるんだ」
「そっちこそ何を言うんだ、俺はその女房のせいで命を奪われそうなくらい困っているんだ」
「はぁ?」
「ブランド品は買いあさるし、高級車は買い換えさせられる…それも車検が済む度に。今年で5台目だ。おまけに、パーティーに行くとか何とか言って着飾っては俺の財布から札束を夜の街にばらまいてくるんだ。俺はもう心も体も財布も疲れてるんだ」
「…」
「だからさ、せめて5千万位にしてくれないか、身代金。いや、身代金というか始末金ってことで」
「あ、あのなぁ…」
「そんなこと言わずに考えてみてくれよ、なぁ。考えてから、もう一度電話くれるかね」
 ガチャン。
 医師は、自分の言いたいことだけを伝えると、何食わぬ顔で患者のカルテを見つめるのだった。

 30分後。
 『先ほどの男性です』と言う看護婦の声に、医師は再び受話器を取った。
「もしもし。考えてくれたか」
「と、とりあえず、替わります」
「替わります?」
「…ゴソゴソ…ゴソゴソ…」
「??」

「あんた、私を放っておくんなら、この男を殺すわよ! わかってるの! ねえ!」
 医師の女房は一人前の誘拐犯と化していた。


 

作者のサイト:http://ww3.tiki.ne.jp/~iriya/index.htm

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