ショートショートバトル 5KBのゴングショー第90戦勝者

「耳の病気」

SS

 サトシは、過敏症だった。厳密には聴覚の過敏症で、ちょっとした物音がひどく気になるのである。
 それだから、大学で講義を聞いているときも、背後の学生が無意識のうちに鼻をすすったりすると、彼は無様にも「びぐぅっ!」と、身体を硬直させてしまう。
 さながら脊椎に電気を流されたマゾヒストのような、あまりにも大袈裟な身体反射。びぐっ、びぐっ、と、跳ね上がるその姿は、もはや無様を通り越して、珍獣にほかならなかった。
 わざとらしい咳払いや、机を伝わってくるかすかな震動など、講義室には彼を悩ませる物音が、際限なく渦巻いている。
講義が終了する頃になると、彼はすっかり打ちのめされ、決まって廃人のような精気の抜けた顔になっているのだった。
(このままでは、死んでしまう…… 物音が、物音が僕を殺すんだ!)
 洒落にならない。人様の立てる物音にビク付いて、心臓麻痺か心労で死ぬ? その可能性が十分にある以上、笑ってはいられない。
 かくかくしかじか、サトシは"ヴォイスレコーダー"を買うことを決意した。
取り敢えず、大学だけは卒業しなければならない。親に学費を出してもらっている以上は、耳を手で塞いで部屋に引き篭もる訳にもいかないのだ。
(フヘヘ。買ってやる! ヴォイスレコーダーにすべてを賭けてやる! ドーンッ!)

 数日後――
 講義が始まる30分前を目処に、サトシはこそこそと講義室へ忍び込むと、教卓の裏にヴォイスレコーダーをガムテープで設置してから、脱兎のごとく立ち去った。
 教授の発言を一言漏らさず録音しておけば、後から再生して聞くことができる。聴覚過敏症のサトシが考え出した秘策とは、講義に出席することなく、講義内容だけを入手するというものだったのだ。これでもう、学生の立てる鼻水の音や、咳払いに悩まされることもなくなる。
 出席カードの提出を求められる講義に関しては、金輪際、足を運ばないことにした。サトシは聴覚過敏症に対して、克服するというよりは、それから逃避することを選んだのである。

 大学の近くの、閑散とした公園のベンチにて、サトシは薄気味悪い微笑を浮かべつつ、ラークマイルドを吸っていた。
「フヘへ。今頃、バカな連中は、バカ正直に講義を受けているんだろうなぁ。哀れな奴らだぜ、まったく。俺はこうして、ゆっくりと90分間、時間が過ぎ行くのを待っていればよいわけだ。フヘヘ」
 程なくして、90分間が経過したら、誰もいなくなった講義室に入って、予め仕掛けておいたヴォイスレコーダーを回収する手筈である。講義内容さえ把握できれば、卒業も夢ではない。社会に出てから引き篭もればよいのだ。
 やがて、サトシは携帯電話のディスプレイで時刻を確認すると、大儀そうに重い腰を上げた。
「さぁて、そろそろ回収しに行くか……」

 日本のテクノロジーは流石だ。
 90分間の講義内容を余すところなく録音しても、まだまだメモリースティックには空きがあった。少しばかり高価だったが、実にいい買物をしたものだ。
 今、誰もいなくなった講義室で、サトシはついにソレを回収することに成功していた。ガムテープを片手でクシャクシャにしつつ、左手の上にあるソレ――ヴォイスレコーダーをしみじみと見詰める。
「本当にいい買物をした。俺の代理で講義に出席してくれたんだもんなぁ、オマエは」
 機械にアインデンティティーなどあるはずもない。しかし、サトシはソレを頬にすり寄せ、たいそう慈しんだ。
 さて、肝心の講義内容である。果たしてしっかりと録音されているだろうか。あの、ひどく甲高い声でしゃべる、やけに身長の低いハゲヤカンの声が。
 教卓の裏に設置して録音させていたから、多少、声は小さくなっているかも知れない。だけど、まぁ、大よその内容が分かればいい。
 不敵に笑いながら、サトシは試しにとばかり、"再生"ボタンを押した。
 カチリ――
 この後、サトシは驚愕することになる。
 日本製品の質の高さが、まさかこれほどまでとは…… クリアな、あまりにもクリアなヴォイスが、デジタルで再生されていた。
 あの、ハゲヤカンの大層なお題目が、明晰な発声となって聞こえてくる。今後の日本経済の見通しだとか、エンゲル係数だとか、とにかく講義っぽい内容がっ!
「やった…… これで俺は、講義に出席することなく、講義内容だけをゲットしたことになるっ! 聴覚過敏症など、もう関係ないんだ。何故なら俺は、いつだってその場にはいないのだから! アハハハハハ!」
 さも愉快げに、喉をのけ反らしての大笑い。聴覚過敏症と「おさらば」できたことの喜びが、サトシを有頂天にさせていた。
 そのとき――「ズズルッ! ズビズバッ!」
「……………」
 一瞬の出来事。しかしサトシには分かった。すでに身体は凍り付き、例の忌むべき症状が出ていたから、すぐに分かったのだ。
 鼻をすする音が、ヴォイスレコーダーからクリアに発せられたのである。それは他ならぬ、あの小人症の教授が立てた、鼻水をすする音だ。
「う、迂闊…… だった…… よ…… 教授……」
 サトシはガグンッと膝から落ち、そのままスローモーションになって、前倒しに床へ倒れ込む。
 あぁ、とうとう、聴覚過敏症による心労がたたって、サトシの心臓が破裂したのだ。思いもかけなかった不意打ち。まさかの機械の反逆である。ヴォイスレコーダーは、忠実に音声を録音していたのだ。学生たちの立てる、あの不快な物音もまた、余すところなく忠実に……
 転がった一つの死体の傍らで、細長い不気味な機械はしゃべり続けた。無人の部屋によく響く、それはクリアなデジタル・ヴォイス――
 ≪――ですから、学生諸君! この不況を打破するのは、ジャパン・ブランドなんですね! 例えば、高性能な機械製品! これで日本は――……≫

 

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