ショートショートバトル 5KBのゴングショー第9戦勝者

「サウンド・オブ・・・」

山本セイ子

午後7時過ぎ、マンションの305号室に住む男が帰宅した。玄関のドアの鍵をガチャガチャと開けていると、となりの304号室に住む女がドアから顔をのぞかせた。
「こんばんは」
「あ、こんばんは」
「あの…」
「はい」
「あの、すみません。こんなこと、言われても仕方がないと思うんですけど…」
「何でしょうか」
「お宅の部屋から、その…イビキが夜中に聞こえてきて…私眠れなくて困っているんですが」
「え?イビキが? へえ…聞こえるんだ、やっぱり。でもイビキは、仕方がないでしょう」
「ええ、そうだとは思うんですけど、でも実際眠れなくて、困ってるんです」
「そう……それじゃあ、部屋に防音シートでも貼る? 大家さんと相談して」
「あ、そうですね。でもそれって、費用がかかりすぎても困りますし」
「そしたらね、大家さんと僕とあなたの3人で費用を出し合うようにして、それで、僕が多めに出すようにします。原因が僕にあるようだから」
「あ、なんだかすみません。そこまで言っていただくと、なんだか申し訳ない気がします」
「いえいえ、あなたが不眠症にでもなって、仕事に支障でも出たら、それこそ僕の方が申し訳ないですから。じゃあ明日にでも大家さんに相談に行きましょう」
「ええ、気を使っていただいてありがとうございます」

女は男に軽く頭を下げて、部屋に引っ込もうとした。
「それからあなた、昨日泣いてたでしょう」
男は女を引き留めるように声をかけた。
「は?」
「あなたの部屋から聞こえるってことは、僕の部屋からも聞こえるってことですよ」
「嫌だ…、嫌だわ」
「あなたが、僕のイビキがうるさいなんて言うから」
「それとこれとは、プライバシーの度合がちがうわ。それに私の泣き声があなたにどんな迷惑をかけたっていうんですか」
「あ…そうだね…少し悪かった…」
「そしたら…私の部屋の…」
「男が来てるときの声も聞こえるかって?」
「やだ…そんなこと言ってないわ」
「いや、それが気になるって顔してたもの、今」
「失礼だわ…」
「昨日泣いていたのはひょっとして…」
「あなたに関係ないことよ」
「その、いつも来ていた男にフラれたの?」
「本当に失礼な人ね。イビキの件は解決したでしょう? 人のプライバシーに立ち入らないでくれます?」
「やっぱりフラれたんだな? その言い方じゃ」
「いいかげんにしてください」
「ついでのことで言わせてもらうけど、僕だって眠れなかったんだよ」
「え?」
「あなたの声、男が訪ねてきてるときのね」
「あ…」
「ほら、それ言われちゃうと困るだろ」
女は怒った顔をしてドアを思いきり閉めた。

そしてキッチンを通り過ぎて自分の寝室へ向かった。壁一枚隔てた向こう側にも隣人の寝室があるのに違いなく、女はベッドの位置を変えることを真剣に考え始めた。
「お〜い、おとなりさん聞こえる?」
こもった声が壁の向こうから聞こえてきた。女は返事をしなかった。それまで、場所も環境も申し分の無い部屋だと思っていたところが、急に居心地の悪い部屋に変わっていくのを感じた。
「ごめんねえ」
壁の向こうからまた男の声が聞こえてきた。女は無視し続けた。

「壁が薄いのが、もともといけなかったんだわ」
キッチンに寝床を置いて、その夜は眠った。男のイビキはそこでもかすかに聞こえたが、寝室にいたときほどではなかった。

朝、女がゴミを出すためにマンションの外に出ようとすると、廊下に隣の部屋の男が立っていた。
「おはようございます」
女は無表情にあいさつした。
「おはよう、あ、どうする?」
男は気をつかうようにおだやかに声をかけた。
「何がですか?」
「防音シートの件、大家さんに相談するの」
「あの…もういいんです」
「もういいって?」
「引っ越しすることにしました」
「そう?」
「あの…気にしないでください。昨日あなたが言ったとおり、彼とも別れましたし、ちょうどいい区切りなんです」
「そうですか…僕は今晩と明日の晩は出張で家にいないので、まあゆっくりと引っ越しの準備でもしてください」
男は少々苦笑しながらおだやかに告げて、自分の部屋に引っ込んだ。

その夜、男のイビキは聞こえてこなかった。久しぶりに穏やかに眠れる日が来たと女は思った。しかしその夜、女はなかなか寝つかれなかった。

「変ね、どうしてかしら…」

次の日も女は夜床についたが、何かしら心が落ち着かず、心地よい眠気はなかなか訪れなかった。女は、男のイビキが聞こえていた日の夜を思い出した。

翌日、男は出張から帰ってきたのか、隣室からなにかガタゴトと物音がしていた。女は勇気を振り絞って隣室のインターホンを押した。
「ああ、キミ、何?」
「あの…私…」
「うん?」
「あの…引っ越しするのやめました」
「ああ…そう」
「それで、防音シートももういいです」
「え? いいのかい?」
男はそれまでとは態度の違っている女を不思議そうな顔で見た。
「この間は失礼なことを言ってごめんなさい」
女は頭を下げた。
「いや、僕のほうこそごめんね…あ…上がってお茶でも飲んでいく?」
「はい、ありがとうございます」

「実際、壁薄いよねえ、このマンション」
女は男の家に通されながら、自分の家とほとんど同じ間取りなのをしげしげと確認した。
「僕、バツイチでねえ、前のマンションが女房の所有だったから、僕が引っ越したの」
「はあ…そうだったんですか…」

男はコーヒーを入れながら女に尋ねた。
「でも、いったいどういう心境の変化?」
「眠れないんです。あなたのイビキが聞こえないと」
男は女に背中を向けたままで、女に見えないようにニタリと笑った。

[前の殿堂作品][殿堂作品ランダムリンク][次の殿堂作品]


[HOME][小説の部屋][感想掲示板][リンクの小部屋][掲示板]