ショートショートバトル 5KBのゴングショー第61戦勝者

「妊婦 -特別編-」

丸出音キち

 結婚して五年ほどが経過したある日、わたしは妊娠している事を知った。
 嬉しかった。
 夫も私も子供が欲しくてしかたがなかったのだ。
 おなかを撫でて自分が妊婦になったということを実感する。胎動を確認するたびに嬉しくてたまらない。そんな毎日が始まるのだ。
「タバコもやめないとね」
 次の日の朝、夫はニコニコしながらそう言った。
 私は大学生の頃からタバコを吸っていた。田舎の高校を卒業して東京の大学に入った時、タバコを吸っている女性の数があまりに多いのに驚いた。やがて流されるように私も吸っていた。
「うん。お酒もね」
「よし。じゃあ俺も子供が産まれるまでは吸わないし飲まないことにするよ」
 と決意めいたことを夫は言う。
「ええぇ、いいよ別に。あなたは仕事もあるんだから気を抜くところは抜かないと」
「いや。俺も吸わないし飲まない。決めたんだ」
 私たちは微笑み合った。


 
 イラついていた。
 禁煙禁酒の誓いを立てた日から一週間後の事だ。昼ご飯を一人で食べた後のリビング。タバコが吸いたくてたまらない。
 吸ってしまおうか。
 いや駄目だ。
 少しぐらい、いいだろう。
 駄目だ駄目だ駄目だ。
 夫にはばれないさ。
 そういう問題じゃない。私のおなかには赤ちゃんがいるのだ。駄目だ。
 葛藤する。
 イライラを取り去るために私はパソコンを起動した。まず、いつも見る育児サイトを閲覧する。そのサイトには数人の主婦の育児日記が載っていて結構おもしろいのだ。さらにリンクをたどって別の育児サイトに飛ぶ。と、そのサイトの掲示板の書きこみのひとつに目が止まった。
「…というわけで、妊娠中の酒タバコは控えめにして………」
 ……控えめ、でいいのか。
 気がつくと私はタバコをくわえていた。ライターで火をつける。慎重に吸いこむ。肺の中が煙で満たされてだんだんと落ち着いてきた。一本だけだ。一本だけ。そう自分に言い聞かす。
 タバコが半分ほどの長さになり、コーヒーでも飲もうか、と思ったとき。
 
 トントン
 
 トントントン
 
 トントン

 おなかの中……。
 赤ちゃんが動いている!

 トントントントントントン

 間違い無い。胎動だ。
 おなかの中に赤ん坊がいる事を再認識し、私は幸福感に包まれた。

 ドンドンドンドンドンドン
 
 ガンガンガンガンガンガン

 ガンガンガンガンガンガン
 
 胎動が強さを増してくる。
 
 ガンガンガン、ガンガンガンガン
 
 ……ズガン!!

 激しい音を立て、赤ん坊の拳が私のおなかを内側からぶち抜いて出てきた。
「うぐはあっ」
 私は突然の衝撃に声をあげた。
 しかしそんなことにはお構いなしで、腹から突き出した赤ん坊の腕は私の胸ぐらをつかんだ。
「お前アホちゃうかッ!?」
 腹の中から声がした。
「え?」
「ワイが腹の中におるの忘れとるんか! タバコなんか吸うて……。ええ? ワイが死んでもええっちゅうんかっ!!」
「そ、そんなあ。そんなわけ無いじゃないですか」
「そうかなぁ。ホンマにそうかなあ」
 ……関西弁。
「じゃあ自分、昨日の夜……何した?」
「え」
 私は赤面した。昨日の夜は久しぶりに夫が求めてきたのだ。
「何をしたかって聞いとんのや」
「そ、その。あの……」
「へっ、そうやろうなあ。答えられへんやろうなあ」
 私はますます顔が熱くなった。
「ワイの苦しみ……わかるな?」
「はい」
「わかったらええ」
「はい」
「よろしゅう頼むでしかし」
 そう言うと、赤ん坊の腕は右へ左へ回りながらグッグッグッとおなかの中に戻っていった。
 
 
しばらくすると夫が帰ってきた。
「これ、会社の後輩の高橋にもらったんだ」
 夫はそう言って右手に持った箱を差し出した。箱を開けるとそこには数十個の茶黒いあれが等間隔で並んでいた。
「これ……チョコレート?」
「うん。そうらしいね」
 そう言うと夫は片手でネクタイを緩めながら、もう片方の手でチョコをつまみ上げ「あーん」と言って私の口へ持ってきた。
「うふふ。あーん」
 私は新婚のころを思い出しながらチョコを口に入れた。甘い味が口の中いっぱいに広がる。ひとしきりチョコを舐めて味わった後で噛み砕いた。
 液体があふれ出てきた。
「ちょっとこれって……、ウィスキーボンボンじゃない!!」
「え」
 やばい。

 トントントン

 トントントン

 た、胎動だ。

 ドンドンドン

 ガンガンガンガン

 ガンガンガンガンガンガン 

 ガンガンガンガンガンガン

 ……ズガン!!

「うげはあっ」 
 予想どおりの衝撃に私はのけぞった。
 赤ん坊の腕がキュッキュッキュッキュッと腹から出てきて私の胸ぐらをつかみ上げた。
「お前は頭おかしいんかッ!!」
 腹の中から怒りに震えた声が響く。
「ワイがさっき言うた事、もう忘れたんか! お前はそこまで阿呆なんか」 
「す、すいません。でも、まさかウィスキーボンボンだとは……」
「いいわけすな。自覚が足りてへんのんちゃうかなあ。えぇ、自覚が」
「す、すいません。……でも」
「でもやあらへん。何やそのいいわけちゃんは……女々しいこっちゃ。もうええ。もうええわ」
「へ?」
「お前のところなんかおれるかぁ!! ワイこの腹出ていかせてもらうさかいな」
「出て行くって……」
 私の言葉をさえぎって赤ん坊の腕はグッグッグッグッとおなかの中に戻っていった。
 それまで呆然とこっちを見ていた夫は腕が消えてからも少しの間立ちつくしていたが、やがて走りよってきて私を抱きしめた。
「大丈夫か」
 夫がやさしく問う。
「大丈夫やあらへんがな」
 答えたのはおなかの中の声だった。
 
 ズガン!!

「うぐはあっ」
「うぐはあっ」
 夫と私は同時に声をあげた。
 私のおなかと夫のおなかは腕に突き破られた。
 やがてそれは私のおなかの穴から出てきて夫のおなかの穴に入っていく。
「これからよろしゅう頼んまっせ」
 その日、夫は妊娠した。

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