ショートショートバトル 5KBのゴングショー第249戦勝者

「おろそ」

ロイド・安藤

「恐ろしい話をしましょうか」
会話が途絶えてしまったので、黙って飲んでいたら、向かいの人がポツリとそう言った。居酒屋も終電間近になって客がほとんどいなくなってしまって、彼女の声が妙に響いたように感じられた。
とは言っても、店の中は、やはり居酒屋特有のざわめきが、そこここを満たしており、彼女の声だけがこだまするようなことはありえない。
たた、その時、食べ合わせなのか、飲み合わせなのか、体温が急激に下がってきていて、まるで井戸の底で彼女と向かい合わせに酒を飲んでいるような気分になっていたのだ。
ざわざわという音は聞こえるが、隣から会話の内容が聞こえるということもなく、それはまるで冬の漁村で聞く海鳴りのようだった。
「怖い話ですか?」
「いえ、恐ろしい話です」
彼女は訂正すると、お湯割りをぐっとやった。
私もグラスを口に持って行ったが、氷の鳴る音がしただけだった。それで、タッチパネル式の注文機器でお湯割りを注文した。
「あるところに、大酒飲みの女がいました。と言ってもふつうの大酒飲みではありません」
女とは珍しい。そう思ったが、黙って耳を傾けるとコにした。彼女もウワバミとは言わないまでもかなり飲む。
「その女は、酒を飲んでも酔いません。村の飲み比べで優勝し、一斗樽を抱えて帰ったとか、賭をした結果、負けた酒蔵を一つ破滅させたとか、彼女に挑戦してきた男たちを全員、肝臓病にしてしまったとか、そういう話でした」
彼女も私とほぼ同数だけ杯を干したというのに酔っているようには見えない。
「酒には酔わないのですが、あるものには酔うのです」
あるもの・・・。
「鯉の洗いをつまみに、その日は酒を飲んでいました。すると、顔見知りの男がやってきまして・・・」
彼女はそこで話をいったん切り、酒で口をしめらせた。
「スピリタスって知ってます?」
「すぽるたす?」
「いえ、スピリタス」
初耳だったので私は首を横に振った。
「ここにもあるんですよ」
そう言って彼女は注文機器を取り上げ、なにやら操作していたが、目的のものが見つかったらしく、テーブルの上に置き、
「ほら、これ」
ウオツカのようだが、とんでもない度数だった。こんなもの飲む人間がいるのか?
「飲みませんか?」
そう言うと、彼女は私の心の中に入り込むような目つきでじっと見つめた。
彼女は十人中十人が美人だというタイプの顔つきで、そんな目で見つめられると、蛇ににらまれた蛙のようにたいていの男はなってしまうだろう。中にはそうならない者もいるだろうが。
「でも、さっきお湯割り・・・」
「いいじゃないですか。まだ始発には間がありますし」
彼女のその言葉に私は腕時計を見た。いつの間にか終電はとっくになくなっていた。
「お湯割り、お持ちしました」
店員がやってきてそう言った。私は手を挙げて合図をした。彼は私の空のグラスとそれを交換して去っていった。
「注文しなくて、よかったのかな?」
「だって、注文はもう入れちゃったし・・・」
そこでまた妙な沈黙が流れた。
海鳴りのように感じられたざわめきも、もはや聞こえない。
奥の洗い場で皿を洗う音すら聞こえてきそうなほど、客がいなくなってしまったようだった。

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