ショートショートバトル 5KBのゴングショー第23戦勝者

「天使の手はとらない。」

(川崎龍介)

 事故か何かで記憶を失った人間が、町の中などうろうろできる訳がない。
 だが、僕は記憶喪失でありながらこうして町を闊歩している。
 なぜなら、僕が記憶を失ったのは今朝がた目覚めてからなのだ。なぜかふと自分の名前が思い出せなくなってしまった。
 とりあえず外に繰り出す。だが、不思議なことに町の光景は非常に克明に覚えていた。ちょっと試しに昨日の事を思い出そうとすれば、スポーツ新聞のトップ記事から1日3食の食事の献立まで思い出すことができた。しかし自分のプロフィールの記憶だけぽっかりとなくなっていたのだ。
 だが、奇妙な記憶が頭の中にあった。
 それは、女の子の記憶。

 彼女は17、8くらいの年だろう。「明るい顔」なのはおぼろげに分かるが、それ以上に詳しいことはまるでさっぱり思い出せない。目鼻立ちとか表情とかまるで分からない。
 だが唯一詳しく思い出せるのはその彼女の手だ。きめ細かく磨き上げたような真珠色の肌、そして細い指。石膏や大理石の彫刻でこの手を表現するのは絶対に無理だろう。多分天使とかそういう類いのものしか持つことのできない手。それほどまでに綺麗な手が僕に向かって差し伸べられている。

 彼女が誰なのか僕は全く思い出せない。自分の彼女なのだろうか、あるいは身内なのだろうか?
 だが自分に彼女がいるのかどうかも身内にいたかどうかも覚えてない。

   ◇

 商店街に入る。結構な人通りで、動くにも一苦労だ。
 途中にファーストフードの店があったのでそこに立ち寄る。そこでコーヒーを注文して2階の客席に上がる。そこそこ混んでいたが、席はあった。辺りを眺め回すことができるように、隅の方の席に座った。
 しかし思ってみたのだが、自分が誰なのか分からなくても、不思議と気分は良かった。
 ……つとめて自分の事思い出す必要なんかない、このままでいいんだ、きっと。
 辺りを見回す。みんな適当に席に座り、適当に雑談をして食べ物を口に運び、適当に席を立つ。その共通のサイクルの中で、僕の事を気にする気配は全くない。
 ……ほらやっぱり。僕の事なんか――
 そこで微かにやるせない頭痛を覚える。気にしなければどうということはないのだが、気にすればとことん感じてしまう。
 コーヒーを一気に飲み干して、しばらくぼおっとしていた。と、さっきの女の子を思い出す。

 そう、17、8才位の女の子だ。今ようやく彼女の顔をくっきり思い出したのだ。彼女は笑っている――端正な目鼻立ちで、非常にすっきりとしたラインで構成された、いわゆる「美顔」であった。
 だが彼女の顔よりも「天使の手」のインパクトは強い。その手は顔より綺麗だった、いや綺麗というより、とても心を引き付けられるのだ。手は好意の元に差し伸べられている、僕を助けようとせんばかりに。

 ついつい眠ってしまっていたようだ。
 こんなところで眠っていてもしょうがない。よし、図書館に行こう。

   ◇

 30分程歩き、図書館に着いた。
 図書館に入ると、僕はしばらく館内をうろうろしていたが、ようやく1冊本を取り、椅子に座って読む。
 その本は写真集だった。風景ばかりを撮ったもの。稲の穂がたなびく田園風景、瑞々しく輝きながら水しぶきを上げて激しく回る水車小屋。そんな中を小学校の児童がランドセル背負って走っている。
 図書館の窓から外を見た。ちょうど前には幹線道路が通っていて、その上を車が行き通う。ときどき信号が無機質な色を明滅させてそれらを整理している。その幹線道路に頼り無く描かれた白い縞模様の上を、ザック鞄を肩から掛けた小学校の児童がとぼとぼと渡っている。おそらく塾に行くのだろう。
 僕は再び目を写真集にやる。
 河原、くさむら、森、山……
 頭の中が突然澄んだ感じになった。その頭の中にあったのは、あの女の子であった。ほぼ*完全な形*で。

 その17、8位の少女は爽やかに笑いながら僕に手を差し伸べる。僕は彼女の赤い服にしばらく見とれていたが、ふと顔を見た。まぶしいほどに明るい表情。僕は照れくささもあってかまたも目を反らす。
 その視線の先には彼女の手があった。誘うように僕に差し伸べられた白い手。僕はその手をとりたい衝動に駆られた。
「ねぇ?」
 突然彼女は笑顔で話しかけてくる。さらに彼女の赤い唇は艶やかに動き、白い歯と桃色の舌で誘いの言葉を紡ぎ出す。
 僕の胸は踊った。嬉しいこと言ってくれるじゃないか。嬉しすぎて涙が出そうだ。
 でも……、僕は君と一緒に行けない。

 どうやらうたた寝をしていたようだ。だがいい目覚めではなかった。なにしろ向こうの好意をあれほど喜んでおいて断わったんだから。
 でもだめなんだ。僕はあの子の誘いには乗れない。ここからは何処へも行けないのだ。
 気分のすぐれないまま図書館を出る。帰り道は何故か憂鬱だった。

   ◇

 僕は今、みずぼらしいワンルームの自宅にいる。
 明かりを消して布団の中に入ると、僕はまぶたを閉じる。
 心地よい闇の中で僕は妙な不安を覚えた。
 またもやるせない頭痛を覚える。
 その頭痛に耐えながら僕は少し考える。どうせあの子がまた夢の中に現れても一緒だろう。僕は今いる場所からは離れられない。それから記憶の事はもうどうでもいいような気がする。戻らなくてもべつにいいや。そんな自分は変に明るかった。

 今を生きるのさ――
 今一応の結論を出すのと、僕の意識が眠りの深みに吸い込まれていくのはほぼ同時だった。

(さらば)

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