ショートショートバトル 5KBのゴングショー第108戦勝者

「過去問。傾向と対策」

森羅万象

 恐くないから、さあ、力を抜いて。
 そう言って、その人は頬笑んだ。橙色の明かりの中で、ボクは笑顔をはっきりと見た。押しつけられる掛け布団の日向の匂いを嗅ぎながら、ボクはなぜか寒さに震えていた。天井にへばりつくようにしていくつもの顔が笑っていた。布団をめくられて寒さが増した。指が直接ボクの首にかかった。首にかかる力が強くなった。息苦しかった。はあはあと荒い息を漏らしているのは、けれどボクではなく、ボクの首をしめているお母さんのほうだった。
 ボクは眼を閉じた。



 家庭教師の仕事を始めて、思いの外、若い子が性に興味を持っていることを知った。挑発するように胸元をはだけてみせたり、体をすり寄せてくる教え子が多かった。
「暑いよ、瑞樹君」
 僕は無意味に胸を押しつけてくるそんな教え子の一人に、苦笑を交えて言った。まだ残暑が厳しかった。瑞樹はハッとしたように顔をあげ、恨みがましい眼でこちらを睨むと、テキストをつかんで体を離した。
「冷房強くする、センセー?」
 それだけで三度は部屋の温度が下がりそうな声だった。僕は首を振って、立ち上がった。学習机の横のカーテンを引き、窓を開けた。熱が固体を思わせる密度で部屋に侵入する。瑞樹がちいさく舌打ちした。
「あたしって、魅力ないかなあ……」
「そんなことないよ。――煙草吸ってもいいかな?」
 窓から街を見下ろしながら、シャツの胸ポケットから煙草を取り出す。瑞樹は無言だ。来年には私立の名門女子高を受験する教え子が、親に隠れて煙草を吸っていることを、僕は知っている。母親がこの部屋に勝手に入り、引出の奥の灰皿を発見したときには「それは先生が使ってるんだよ」としれっとした顔で答えるのだ。煙草の問題だけに煙幕代わりというわけだ。
「……ねえ、センセーは大人でしょ?」
 ひどく粘ついた声だった。不自然な艶があった。僕は内心びくっとしたが、表情を消して振り向いた。ミニスカートの脚を横に投げ出し、上目遣いで瑞樹がこちらを見ていた。
「社会的には大人として扱われる年齢だね」二十歳を過ぎれば自己責任で煙草も酒もやれる。それを大人というなら、僕は間違いなく大人だ。「でも、君が言うのはそういう意味ではないね?」
「……わかってるんなら、まわりくどい言葉使わないで。ねえ、大人なんでしょ?」
「さあ、どうかな」僕は煙草の煙を天井に向けて吐き出す。真っ白い天井には陰の住み着く余地はなさそうだった。豪邸といってもいい屋敷の、娘のために改装されたばかりの部屋。「まだ子供かもしれない」
 瑞樹が声を殺して笑った。「じゃあ、あたしが教えてあげようか。大人のこと」
「まだ子供でいいよ」
 僕は瑞樹の前に坐り、煙草をくわえたまま彼女の頭をぽんぽんとはたいた。
「それより、とっとと過去問を解く。過去にすべてがありき、だ」
「過去ねえ……」
 部屋の戸がノックせずに開けられた。瑞樹の母親がジュースを載せた盆を手に、険しい表情を浮かべていた。僕は平静を装って立ち上がり、お盆を受け取った。
「予定は来春ですよね?」
 僕が小声で言うと、母親は笑顔を作ってうなずいた。


 初雪が降ったある日、僕は瑞樹とカラオケに行った。滑り止めの入試を彼女が受けた、その日のことだ。顔をあわせたのは僕が通う大学のキャンパスだった。試験会場に使われたのだ。強引にせがまれ、お祝いの前払いをさせられることになった。本当の本番は、まだひと月もあとのことだというのに。
「ねえ、センセー」それまでカラオケ用の歌本をめくっていた瑞樹が、ふと低い声音で言った。「……キスしない?」
 たった一杯のビールで僕は酔っていた。教え子に手を出すのは人道にもとると考えていた僕は、にもかかわらず瑞樹の提案を素直に呑んだ。瑞樹の唇はしょっぱかった。ソルティードッグのグラスに、おざなりに盛られた塩の味がした。本当の教師ではない僕は、酒と煙草は生徒の自主性に任せていた。
「本当はセンセイもしたかったんでしょ?」
 長い前髪に隠され、瑞樹の表情はわからない。細い指がジーンズの太腿を這い、脚のつけねを探った。手馴れた仕種だった。
 恐さを不思議と感じなかった。委ねてもいいような気になっていた。自分がそうしてはいけない立場だというのは、言い訳にすぎないと、瑞樹がさする箇所が主張していた。
 瑞樹の体重がかかった。押し倒された。カラオケボックスの狭いソファに窮屈な姿勢で押し込められ、瑞樹が上におおいかぶさっていた。猫科の獣のような油断ない視線を受け止めながら、カチャカチャとベルトが外され、チーッとファスナがおろされる音を聞いた。
「大丈夫、恐くないから」
 瑞樹が笑った。
「さあ、力を抜いて……」
 瑞樹のスカートが僕の屹立をおおいかくした。呑みこまれた。


「ボクね、ボクね、恐かったの……」
 泣きじゃくりながら同じ科白を繰り返す瑞樹を視界の端にとどめながら、僕は首をさすった。気を失ったのはどれくらいだろう。重い腰が、無意識のうちに交渉が成立していたことを教えた。
 伝票が入っている編み箱から紙製のおしぼりを出し、泣く瑞樹の脚をひろげさせ、泡だつ液体を拭き取った。
「また昔のように戻っちゃうんじゃないかって恐かったの。弟が生まれたら、ボク、いらない子になっちゃうんじゃないかって恐かったの」
 瑞樹はぽつりぽつりと幼かった頃の話を始めた。母と子の二人だけの生活。行き詰まった生活。ある夜、母が苦しい生活に終止符を打とうとし、結局は躊躇ったこと。そのあと新しい父親ができたこと。しゃくりあげながら子供のような口調で話す瑞樹に耳を寄せ、頭を撫でて何度も無言でうなずいた。
「大丈夫、瑞樹はいらない子じゃないよ」
 しばらく沈黙が続いたあと、僕はそれだけを口にできた。
――僕が瑞樹の父親になったとしても、決して君を捨てないよ。離さないよ……。
 瑞樹の頭を抱きながら、もうすぐ生まれてくる瑞樹の弟について思いを馳せた。



作者のサイト:http://kyshinra.ld.infoseek.co.jp/

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