ショートショートバトル 5KBのゴングショー第101戦勝者

「デルタ」

流転


遺書

 あたしは、もう何もかも疲れました。
 仕事から帰ってほっと一息つく瞬間、今生きている世界のことが非現実的なことのようにしか思えなくなって、まるで全てが夢のようで、部屋の窓から飛んでしまえば楽になるのにって。そんなことを考えることが多くなりました。

 それでもパソコンを起動して、あの人からのメールがきていないかを確認することは忘れませんでした。
 あの人だけが、あたしの中の、唯一の、リアル。
 あの人と出逢ったのは、或る街角の交差点でした。
 ここに来たばかりで、戸惑っていたあたしに、優しく声を掛けてくれたのです。
 あたし達はすぐに仲良くなりました。
 あたしは彼のことを愛してしまいました。
 もう、彼無しでは生きてさえゆけない。

 付き合い始めて一年が経ったある日、あたしは彼に「会いたい」とメールを打ちました。だけど、何故か彼からの返事は来ませんでした。
 そのあたりからだったと思います。
 彼があたしに対して急によそよそしくなったのは。
 実は、付き合い始めてから、まだ一度も彼の家にも招待されていませんでした。それは今回の事と何か関係があるのではないかと思ったあたしは、その道のプロに頼み込んで、彼の住所を突き止めました。
 そして、あたしは、彼に奥さんがいることを知ったのです…。

 ショックでした。
 目の前が真っ暗になるようでした。
 一年も、彼があたしのことを騙していたなんて。
 あたしに向けられた優しい言葉も、あの笑顔も、全て偽りだったなんて。
 すぐには理解することさえ難しく、あたしは途方に暮れました。

 それから、あたしは何度も何度も彼の家に足を運ぶようになりました。
 手に入らないのなら、じっと遠くから見つめているだけでもいい。
 あたしは家の近くの自販機の側から、隣の家の陰から、雨の深夜に彼の部屋の窓を見上げるように、彼だけを追いかけました。

 そんなある日、彼の奥さんがあたしに接近してきました。
 あなたは、夫の愛人ですか。
 あたしに向かってそのようなことを言うのです。
 お願いだから、あたし達家族の幸せを奪わないで、と。
 その時、あたしは自分のしていることの愚かさに気がつきました。
 自分がとんでもなく悪いことをしているんだという自覚が急に目の前に立ちはだかり、再び大きなショックを受けました。

 そうして、あたしはきっと現実を失いはじめたのです。
 毎日、毎日、何千回もメールチェックだけをする日が続きました。
 あたしは、現実から目を遠ざけるために、いつの日か彼からメールがくるのではないかという、あり得ない夢にすがっていたのかも知れません。

 だけど、それも今日までです。
 あたしはこの悪夢から逃れるために、自らの命を絶つことにしました。
 彼にも、彼の家族にも、辛い思いをさせてしまったことを後悔しています。
 あなたに恋したあたしは、あなたを傷つけることしか出来なかった。
 本当にごめんなさい。
 もうあなたの前には二度と現れないから、許してくれませんか。
 出来ることなら、もう一度、あなたと話しがしたかった…。
 あなたの笑顔が、見たかった。
 さよなら。

デルタ

***

「何度も言っているようにね、刑事さん。僕はあの女がデルタだったなんて、これっぽっちも知らなかったんですよ。彼女との出会い?…ああ、覚えています。インターネットです。インターネット。ありふれたチャットルームですよ。サイト名は『或る街角の交差点』。彼女のハンドルネームはデルタ。パソコンを始めたばかりだからって言っていたので、まあ確かに優しくいろいろ教えてあげたかもしれませんね」

「浮気なんてとんでも無い。何度も言っているでしょう。会ったことも無いって。まあ、二、三回メールは交わしたかも知れませんが。愛してるなんてメールは打った覚えもありませんね。もう一年半も前のことです。一年ぶりにメールが来たとき、僕は彼女のことを思い出すのさえ苦労しました。連絡なんて一切取り合っていませんでしたからね。それも、何の用かと思ったらいきなり『会いたい』ですよ。僕は気味の悪いやつだと思って無視しました」

「その道のプロ?凄腕のハッカーとかじゃないですか?IPアドレスから住所を割り出されたりするって、聞いたことありますよ」

「ストーカーって言ったって、そんなにひどいことされたわけじゃないですし。妻が、玄関先に知らない女が立ってるって。こっちをじっと見てるって言うので、近所の変人だろうと思っていたのですが、まさか、彼女がデルタだったなんて」

「もう分かったでしょう?彼女が僕の住んでるマンションの屋上から飛び降りて死んだのは、僕には関係の無いことです」

「最後に聞きたいことがある?なんです?笑顔?僕が彼女に向けた笑顔?ああ、きっとこれのことじゃないですか?」

 僕は、警察署の暗い部屋の中で、渡された紙にボールペンでスラスラとこんなふうに記号を並べた。
『 (^-^) 』。

***

 夫が浮気をしているのは薄々勘付いていた。
 よく家の前に立っていたあの女が、あたしに対して執拗に嫌がらせを繰り返していることを、馬鹿な夫はまだ気付いていなかった。
 ある日、あたしは決心をした。
 もうこんな生活には耐えられない。
 あたしは女をマンションに呼び出して、お酒を飲ませて眠らせた。
 無力の人間を誰にも見つからずに屋上まで運ぶのは大変な重労働だったが、あたしは上手くやり遂げた。
 夫のパソコンを調べて、昔インターネットで知り合った女性がいないかどうかをメールの履歴から確認した。メールの内容から、この手のストーリーを考えることなど、案外簡単な作業だった。
 あたしは予め作成していた遺書を彼女の靴と一緒に手摺りの内側に並べて置き、彼女の体を外に放り投げた。

***

 翌月、夫が自殺をした。
 あの事件…、いやストーカー女の自殺の後、こんなメールが夫のパソコンに届くようになったからだ。


送信者:デルタ
件名 :愛してる
会いたい。
会いたい。
会いたい。
会いたい。
会い…






[前の殿堂作品][殿堂作品ランダムリンク][次の殿堂作品]


[HOME][小説の部屋][感想掲示板][リンクの小部屋][掲示板]